「麦ちゃんのヰタ・セクスアリス」考察
さて、この物語は第一部の終わりに、麦は季節の名前をもつ人と結婚した、と書かれていて、やよいと結婚したのでは、と考えている人も多いだろう。
しかし、麦が誰と結婚したかは問題ではない。
やよいとの間に起こった不幸に対して、命の誕生が不幸であってはならない、と憎悪を昇華し、希望への再生と結実にしたところに、この物語の醍醐味がある。
この物語は実に微妙で複雑な終わり方をしている。第二部の2巻と3巻で立て続けに季節の名前をもった女性が登場し、終局にはその一人の母親を「あの人」と表記している。
私などは、まだこの物語は終わっていないと信じ、第二部の3巻が出た後も、足しげく本屋に通ったものだ。しかし、今読み返せば、この物語はこれで、いや完璧に完結している、と考えてもいいのではと感じている。
まず、この物語の生い立ちを考えてみると、タイトル通り「麦ちゃんのヰタ・セクスアリス」・・・麦ちゃんの性生活、である。立原あゆみは少女漫画に、男の子のちょっとエッチな側面を掲載した漫画を書こうと思ったに違いない。しかし、自分自身の意に反して、物語が広がり過ぎた。いつの間にか、性生活が、生と死を巡る物語に発展してしまった。これは、性という文字が、りっしんべん(小;心を意味する)という編と、生というつくりをもつが故の必然だったかもしれない。
その為に、この物語にケリをつける為には、麦の生い立ちから描かなくてはならなくなった。そこで、第二部の初頭に麦の生い立ちを巡る物語を描いたのではないかと考えたりする。
その第二部では、物語の決着をつけなければならない。そのヒントは、麦が鮎子との出来事が起こる時に、麦の父が「男は、母の元に帰りたい為に、女を好きになるのだ。」と語るところにあると思うのだが。
麦が、名前の現れない人(第二部で現れた、季節の名前をもつ二人のうちの一人の母親)を「あの人」と呼んでいるのは、母冴子の母性に還った、と考えることは出来ないか?他人の子供(やよいとその主人の子供)が産まれた時に「私は父になりました」と言う麦だけに、そういう深読みをしてもいいと思うのである。また、父になった、ということは既に心と心の結実イコール結婚していることを意味し、それが第一部で述べている、季節の名前をもった人との結婚を意味しているとも捉えられる。
この物語の主題は多くの人に語られているかもしれないが、愛は命を紡ぐもの、生と死の狭間のぎりぎりのところでの命の継承、どんな深い傷からでも再生し結実するという色褪せない希望にある。ちなみに、この物語の中で何人(何頭)の生と死があったか、主なものを数えてみた。意外と少なく、生・死、ともに二人と一頭である。産まれたのは、麦、バクスター、やよいの子供、死んだのは麦の母冴子、星子、バクスターだ。
そこで、この生と死を軸に、この物語のキーワード「愛」「命」「生」「死」「継承」「再生」「結実」「希望」という言葉を眺めていくことにする。
第一巻のささやかな性生活という側面の次に訪れたのは、意外にも「死」の「継承」である。星子の自殺とそれに続く麦の後追い自殺からだけでは分りにくいが、別冊「黄色い鳥」に描かれている葦ノ介の事故死と絡めて考えると、葦ノ介→星子→麦と「死」が継承されているのに気付く。そしてここでは、星子への「愛」は麦の「死」を紡ぐものと捉えられるかもしれない。
麦の自害に気付くのが、星子が名付けた”愛”猫、涙が鳴くのを不審に思った父記(しるす)というのは、興味深いところである。記はこの物語を語る上で、重要な人物である。「お前が死んだら、冴子(麦の母)を何に見いだせればいい?」と冴子への「愛」を麦への「愛」へと「継承」した本人なのだから。
かろうじて麦は「死」の「継承」から逃れることが出来て、星子の「死」という癒えない傷から「再生」し、北海道へと向かい、後に星子の名の一部をもつ、バクスターの出産を手助けし、新しい「命」イコール「生」に立ち会うところに第一部の意義があると思うのである。「死」の継承から「生」「命」の「継承」へと「結実」させたのである。そして、そのバクスターは、麦の初めての人、鮎子との別れの後に新馬勝ちという更なる「結実」を得る。
最後に、これらの物語に流れているのは、深い傷からでも癒えないことはないという、色褪せない「希望」だと締めくくっているのが第一部の主題だと思える。
第二部では、更にこれらのキーワードが色濃くなる。麦の「生」と冴子の「死」、すなわち、冴子の「命」から麦の「命」への「継承」という物語から始まり、バクスターの「死」とやよいが宿した麦以外の男性との「命」を中心に物語は展開する。
バクスターの「死」とやよいが宿した「命」イコール「生」、この「生」と「死」というコントラストをもった不幸は、他の物語には見られない不幸の決定打である。この二つの不幸に対して、麦はじっと耐え、それでも学び舎のある地へと帰らねばと思う。そして、旅立ちの夜に見た初オリオンを新しい出発だと思い、「希望」が色褪せない理由は、その先に深みがあるからだと直感する。
この物語は、周辺の出来事なんかもつぶさに描いていて、読んでいる最中にはなかなか気付きにくいが、改めて全体像を眺めると、そこに流れるのは、癒えない傷からの「再生」、色褪せない「希望」であることに気付くだろう。
そして、この長い物語の最後は、前述のように微妙な終わり方だが、最後の文章が「もう一箱はやよいに 永遠のふたをしめて」とあるので、これは完結していると捉えてもいいだろう。私は、麦は、麦の個体としては、永遠の「愛」をやよいに送ったと考えている。
この他にも、この物語は感じるべきところが色々ある。
一つは、愛は血を越えるものではないか、という疑問である。それは、風子を我が子や妹のように思う記や麦、やよいに自分の子供だと嘘をつき通せと言い、他人の子供が産まれて「私は父になりました」と告白する麦に如実に現れている。
もう一つは麦の父記の存在の大きさである。私は滅多に小説や漫画は読まないので、思春期の人の読む物語の父親像がどのように描かれているかさほど知る由はないが、麦にとっては「春の熱病」に描かれているように、越えようと思って越えられない存在である。特に、第二部3巻の「ペンギンの海」に散りばめられている記の文章は秀逸である。(勿論この文章は立原氏によるものだ)
最後に、多くの論評で述べられているような、麦はモテる!モテる!というようなひがみは言わないで、この考察を終わりたい。命の継承の為に生を授かった、という意味では、麦も私も同じなのだから。例え、命の継承が未遂に終わったとしても。
この物語を再び読むきっかけを作ってくれた、Yahoo!の短時間労働さんに謝意を込めて締めくくりとします。
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